今回の放送では佐藤栞里さんが1年ぶりにハシゴ旅に出ます。
行き先は東京港区にある麻布十番。
メディアでもすっかりお馴染みの街ですがどんなところなのでしょうか?
そこで麻布十番商店街について調べてみました。
メディアでおなじみの街 麻布十番
芸能人を見かけることも多い麻布十番。
老舗のお店のほかにも新しくできた、おしゃれなお店もある街です。
今でこそメディアでおなじみとなっていますが、昔は「陸の孤島」と呼ばれたほど静かな街でした。
どんな街だったのでしょうか?
もともとは麻布村
麻布十番商店街は善福寺の門前町として江戸時代から約300年以上にわたり栄えてきました。
古くは麻布村に属する低湿地帯でした。
江戸時代、仙台藩の江戸屋敷が広大な土地を持っていました。
しかし低地側の湿気の多さに困り果てていました。
そこで高台側は藩邸としてそのまま使い、低地側の半分を幕府に返上したほどでした。
多くの大名の下屋敷や家臣の住まいがあった麻布十番。
はやくから下町風情のある庶民の町がつくられました。
明治時代には神楽坂と並ぶ繁華街に発展しました。
この時から通称として麻布十番という町名は定着していました。
そして1962年(昭和37年)に正式な町名となりました。
なぜ麻布十番?名前の由来は?
由来は諸説あります。
「麻布」に関しては昔、麻の布をこのあたりで作っていたからという説。
また浅く草が生えている土地だったので「浅生」が変化して麻布となった説。
そして麻がよく育つ土地という意味で「麻生」が変化して麻布となった説もあります。
「十番」に関しても諸説あります。
河川改修の工区番号とも開拓地の番号とも言われています。
陸の孤島に地下鉄開通
「陸の孤島」と呼ばれていたほど交通アクセスの悪かった麻布十番。
2000年に地下鉄がとおり、街並みも徐々に変わっていくことになります。
2000年9月に東京メトロ(旧営団地下鉄)南北線が、12月に都営地下鉄大江戸線が開通。
麻布十番駅ができました。
交通アクセスが良くなったことにより、たくさんの人たちが訪れるようになりました。
つぎつぎと新しい店ができ老舗も含め、メディアに取り上げられる話題のお店が多くあります。
十番稲荷神社
お寺や神社が多い麻布十番。
とくに商店街ちかくにある十番稲荷神社はパッと目をひきます。
ご由緒
末広神社と竹長稲荷神社が戦災で焼失。
昭和25年復興土地区画整理により現在地に換地、隣接されました。
その後、合併し十番稲荷神社と改称され平成9年に現社殿に建てかえられました。
港七福神の宝船担当
七福神に宝船は含まれません。
しかし港七福神(東京都港区の七福神)には七福神と、さらに宝船があるのです。
たしかに七福神をのせる宝船。とても大切な存在ですよね。
かえるの像
なぜか、かえるの像がありますが不思議なお話が由来になっています。
江戸時代このあたりで大火があり、ほとんどが焼けてしまいました。
ところが、ある屋敷だけ免れたのです。
邸内の池の大かえるが水を吹きかけ猛火を退けたといわれています。
その後、そのお屋敷の山崎家に御札を求める人たちがあとを経ちませんでした。
そこで山崎家は「上」(じょう)と一字かかれた御札を人々に授けるように。
この御札を「上の字様」と称され防火、火傷のお守りとして信仰を集めたのです。
今ではかえるのお守りとして復活しています。
近年は「かえる」の語音から無事かえる、元気でかえる、遺失物がかえる、若がえるなどのお守りとなっています。
そして「上の字様」も神社に伝わる資料をもとに復刻。
現存する、がま池の水を使用して奉製した唯一のお守りなっています。
現在の麻布十番
高級住宅地と庶民的な住宅地。
古いお店と新しいお店。
近くに大使館が多いことからさまざまな国の人も、よくみかけます。
お寺や神社、教会もたくさんあります。
いろいろなものが混在していて絶妙な雰囲気の街です。
麻布十番の赤い靴の女の子
麻布十番にある広場「パティオ十番」には赤い靴の女の子の像があります。
なぜ、麻布十番にこの像があるのでしょうか?
ある投稿記事から始まった
童謡「赤い靴」。(野口雨情 作詞 ・ 本居長世 作曲)
1922年(大正11年)に発表されました。
この歌詞は実際の少女をモデルに書かれていたのです。
1973年(昭和48年)北海道新聞の夕刊にある投稿記事が掲載されました。
「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」
岡そのさんという方の投稿が、すべての始まりとなりました。
これをきっかけに当時、北海道テレビ記者だった菊池 寛さんが5年あまりの年月をかけて女の子のことを調べたのです。
義妹である、岡そのさんの母親の出身地(静岡県)、そのさんの父親の出身地(青森県)、雨情の生家がある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、横浜、東京などを調査。
さらにアメリカまで渡り歌詞に出てくる異人さん(宣教師)をさがして、女の子が実在したことをつきとめたのです。
やむなく養女へ
1902年(明治35年)7月15日。
岩崎きみちゃんは静岡県で生まれます。
赤ちゃんの時から、いろいろな事情で母親の岩崎かよに連れられて北海道に渡ります。
かよが再婚することになり北海道の開拓農場に暮らすことになります。
開拓地の想像を絶する厳しさから、かよは、やむなく3歳のきみちゃんを養女に出すことにしました。
アメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻に引き取られました。
かよは夫と厳しい開拓地で懸命に働きましたがうまくいかず1907年(明治40年)失意うちに札幌に引き上げました。
夫の鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけます。
そしてこの新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになりました。
野口雨情は長女を1908年(明治41年)に生後わずか7日で亡くしています。
そんな中、かよは外人に自分の娘を養女に出したことを話したのでしょう。
その会話をもとに赤い靴の歌詞が生まれたのではと思われます。
かよは「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら赤い靴をよく歌っていたそうです。
海を渡れなかったきみちゃん
かよは死ぬまできみちゃんがヒュエット夫妻と一緒にアメリカで幸せに暮らしていることを信じていました。
しかし、きみちゃんはアメリカには行かれなかったのです。
ヒュエット夫妻が帰国しようとした時、きみちゃんは結核にかかっていました。
当時は不治の病と言われていた結核。
衰弱がひどくとても長い船旅は不可能でした。
きみちゃんは鳥居坂教会の孤児院に預けられました。
そして1911年(明治44年)9月15日の夜、9歳という短い生涯を閉じたのです。
この鳥居坂教会は現在、十番稲荷神社となっています。
きみちゃんは、麻布十番で亡くなったのですね。
きみちゃんのチャリティー
幸薄かった親子の冥福を祈る人々が像の下にお金を置くようになりました。
麻布十番商店街では世界中の恵まれない子供たちに役立ててもらうため、集まったお金を毎年、日本ユニセフ協会に寄付しています。
にぎやかな麻布十番の中にそっと佇んでいるきみちゃん。
恵まれない境遇の子供がいたこと、そして今でもいること、決して忘れてはいけませんね。
十番稲荷ときみちゃん像
【麻布十番】きみちゃん。
赤い靴、入って、女の子。異人さんに、連れられて。行っちゃった。♪
の主人公。実は、結核にかかり、米国への船は乗船できず。
最期を看取った鳥居坂教会は、今の十番稲荷神社。 pic.twitter.com/ShcXiSBXYP
— 林 志行 (@linsbar) October 31, 2019
麻布十番なう。きみちゃん像にコイン一個入れる。 pic.twitter.com/03tdH8w1Xg
— 詩堂炉久人@『社長隷嬢セレクション』発売中! (@rohisato) June 6, 2016
麻布十番商店街 まとめ
いろいろなものが混在している麻布十番商店街。
以前は黒いお湯が特徴の麻布十番温泉もありました。
時代の流れで残念ながら、なくなっていくものも多々あります。
でも、人々が集まる場所に変わりはありません。
これからも、ずっと元気な街でいてほしいですね。